はらぺこ本の虫

読んだ本をゆるーくご紹介。ジューシーな文章が大好物です。

はだかんぼうたち

「はだかんぼうたち」

江國香織

 

 

ざまあみろ。

言い方は悪いが、江國さんの書く母親像に自分の母親を重ね合わせてそんなことを思ったりする。いや、母親ではないか、親戚中の自分より年上のすべての女性か。

決して悪い人ではないのだけど、娘の結婚(という名のしあわせ)を待ち望み、自分の理解できないことは聞かなかったことにする。悪気はなく傷つくことを言い放つ。もしや江國さんも、と思わずにはいられないほど。

母親の思った通りには娘は育たないのだ。みんなそうじゃないだろうか。

好きなものに囲まれて、自分で稼いだお金で装身具を買い、想いの人と唇を重ね、自分の足で立って生きる。もう成人して親元を離れているし、自分の人生を自分で歩んでいるのだ。

それなのに。

それなのに、結婚していないことや子どもがいないことに罪悪感を感じるのはなぜだろう。世間体というプレッシャー、周りからの目には見えない謎の期待。自分で選んだ道なのに。私、何も悪いことはしていないのに。

 

だからこそ、江國さんの小説に救われる。読んでいる時だけ、呪縛が解ける。

きっと、桃には「自分の好きにしていいのよ?」、鯖崎には「そんなことよりも、うまいメシでも食べに行こうよ」、と言われるだろう。そして「人それぞれ、想いは違って当然。そうでしょ?それにね、自分の肉体は、他の誰のものでもなく自分のためだけにあるものだから」と、内緒話をする少女のように江國さんが囁く声が聞こえる気がする。私はそれを聞いてほっとするのだ。

美しいものを見に行くツアーひとり参加

「美しいものを見に行くツアーひとり参加」

益田ミリ

 

 

ヨーロッパは世界一周の時に行ったきりで、それから立ち寄ることはなかった。もっぱらアジアとオセアニアをウロウロ。なので、最近はヨーロッパ再訪に向けてワクワクするような情報のインプットを試みている。北欧にオーロラ見に行くのはとても魅力的だなぁと思ったり。

ミリさんのように高いお金を出してガチガチに組まれたツアーにひとり参加、というのは私には合わなそうなので、私は自分でルートを決めてふらっと自由なひとり旅に出てみようかな。

フランスふらふら一人旅

「フランスふらふら一人旅」

にしうら染

 

 

パリのアパルトマンを借りて、約1か月暮らすように旅をする。

過去にワーキングホリデーでNZに1年いたけれど、今はもうワーホリ対象年齢を越えてしまったからこそ、長期滞在にとっても憧れる。

今の私ならどこへ行こう。

せっかく長い滞在なので、日本から比較的簡単に行ける近場のアジアよりももっと遠くがいいかな。スペインとかどうだろう。スペイン語も学びたくて気になっていたし、ヨーロッパの中でも明るく陽気なイメージで、料理の味付けも合う気がした。

本書のフランスとは全然関係ないけど。旅のヒントとして。

いま、地方で生きるということ

「いま、地方で生きるということ」

西村佳哲

 

 

この本を買ったのは、ちょうどコロナ禍真っ只中、周りに内緒で広島へ旅をしに行った2020年頃だったと記憶している。尾道にある「紙片」という本屋のしおりが挟まっていたから間違いなさそうだ。半透明で美しい。

その頃の私はニュージーランドから帰国して、兵庫県の山間にある温泉地で仕事をしていた。特に何もない田舎でも大丈夫、という自信はあったのだけれど、地域の人たちと価値観が合わず、せっかくニュージーランドでのびのびと解放された気持ちがガチガチに固く冷たくなっていくのを感じていた。苦しかった。

だからこそ、地域おこしとは何か、という答えを探したくてこの本を買ったのだと思う。しかし、タイトルや帯コメントに惹かれて購入したものの、内容が私の想像していたものとは違っていたことや、東北の地名が分からずピンと来なかったことも重なり、なかなか読み進められないまま読むのを二度ほど断念したのだった。

ただ、こういった本は後から読むべき時が来るものだ、という確信めいた何かがあったので、しばらく本棚へとしまっておいた。そうしたら、5年後、読む時がやってきた。今だった。

岩手に引っ越してきたことで地理が分かり、地名を聞いただけで景色が浮かんだ。読める、読めるぞ。

そして、やっと今回で全375ページの分厚い文庫本を読み切ることができた。

東日本大震災がおきて2ヶ月後の2011年の世界が押し花のように保存されていて、さらに文庫版になるにあたってコロナ直前の2019年の世界も追加で標本にされているような本書。8年間で人の気持ちも環境も変わる。コロナを経てなおさらだろう。

私も自分の心が向く方へ、感覚も住む場所も変えていいのだ。

100万分の1回のねこ

100万分の1回のねこ

アンソロジー

 

 

私の母は絵本をよく買う人で、私の家にも佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」があった。いつ購入したのかは定かではないが、読んで泣いた記憶があるので、きっと小学校の中・高学年くらいの頃だろう。

その、みんな読んでグッときたであろう"ねこ"から想像を広げて描かれる13人の作家によるアンソロジー。人それぞれ感じたものや表現したいことが違うので、読み進めるのが楽しいし、ひと作品が短いので気楽に読める。

基本的に私は江國香織ラバーなので江國さんの文章を摂取できれば満足。井上荒野は旅エッセイがひどく読み辛かった印象だったけど小説なら読みやすかったし、角田光代は泣かせに来た。山田詠美は久しぶりに読んで好きな感じだと分かったので今度何か一冊読んでみよう。川上弘美は視点がなかなか良くて、最後の谷川俊太郎の一小節は谷川さんが亡くなった今だからこそ余計にグッときた。あの世でも生まれ変わっても楽しく生きてほしい。

大人が絵本を読んではいけないという決まりはないのだ。まだ実家に残っているだろうか。読み直してみたくなった。

美麗島紀行

「美麗島紀行」

乃南アサ

 

 

台湾人はいろんなルーツの人がミックスされている、という話になるほど、と思った。私がNZで出会った台湾人は中華系な顔立ちの人もいれば、日本人に近い顔立ちの人も、ポリネシア系なのかなと思うような顔立ちの人もいた。その時は不思議だなと思っていたけれど、そういうことなのだ。歴史を知れば知るほど見えてくるものがある。

そう思うと、日本は極東に位置する島国だからミックスされることが少なく(おそらくミックスされても分かりづらく)、台湾に比べて多様性に富んでないのかもしれない。"顔立ちが違う"ということや"日本語じゃない言語で話している"ということに慣れていないがゆえに、優しくなれない人も多いのかも、と思った。

 

文庫には巻末に解説という著者ではない人の文章が寄せられるが、そこで乃南さんの文章の読みやすさがわかった。台湾に関わる中国・米国の武力情勢を書いてないから読みやすいのだ。実際にこの目で見聞きしたものや取材した人、町の雰囲気などを愛情深く書き記しており、それが心地よい読み応えとなっている。それなのに多くの参考図書からの引用があったりもして、学術的にも文学的にもすばらしい一冊になっていると感じた。

 

そして、4年前に友人がこの本を貸してくれたのに全く読み進められず、最終的に「読まないなら返してくれる?」と言われて素直に返却したのも今ではいい思い出。あの時はごめんね。やっと読んだよ。

シシになる。遠野異界探訪記

「シシになる。遠野異界探訪記」

富川岳

 

 

岩手県遠野市。この地にも何か目には見えない結界のようなものがあるんじゃないかと思った。

 

以前に長野を旅した時、駒ヶ根に立ち寄った。大きな山々に守られているような場所で、少し滞在しただけなのになぜだかとても気に入った。誰に聞いたか忘れたが「駒ヶ根は結界で守られているから居心地がいいんだ。帰って来たくなるよ」と言われたことは覚えている。スピリチュアルな話ではなく、本能的な何かがそう感じさせてくれる気がして、その時は妙に納得したのだった。

そして1年ちょっと前に遠野に移住をしてきて、この地でも同じような感覚になった。なんだか居心地がいいのだ。それって、駒ヶ根で誰かが言ってたことと共通する何かがあるのでは?と思っていたが、本書を読みながら、駒ヶ根で言われていた「結界」というのは、もしかして「小盆地宇宙(文化人類学者・米山俊直氏の提唱した概念)」みたいなものなんじゃないか、と思い至った。おもしろい。山で囲まれた土地だからこそ、その中で独自文化が醸成されていくのだ。遠野も駒ヶ根も。

シシ踊りの異様さも然り。私の生まれ育った土地ではこんなの見たことがない。畏怖、安心感、懐かしさ。私も去年の遠野まつりでシシ踊りを見てそう感じた。でも、すごく良くて、その良かった気持ちをうまく言語化できないのだ。徐々に遠野人となっていくうちにうまい言葉が見つかっていくのだろうか。

柳田国男もそんな遠野の文化に触れて、衝撃的で奥深い、まるでこれまで味わったことのない飲み物を飲んだ時のように、ゾゾっと戦慄を感じたのかもしれない。

 

私は地域おこしでも何者でもなく、ただ縁に引き寄せられて住み着いた遠野で、現在過去未来すべてがグツグツと煮込まれてた異界をこれからもこの目で見つめ続けたい。

たそがれビール

「たそがれビール」

小川糸

 

 

もしかしたら初めての小川糸作品。

私はこれが好き、これを大事にしたい、とはっきり言える人なんだなと思った。他のエッセイも読んでみたい。

夏の数ヶ月、ドイツで生活するのにはすっごく憧れる。私もしたい。NZでワーホリしてた時に私も感じたのだけど、日本は何でも使い捨てする文化だなぁと。だからNZやドイツみたいにいろんなモノを修理しながら長く使うことには大いに賛成。ドイツの話がたくさん出てきたので、ドイツの文化にもっと深く関わってみたくなった。日本にいるとタダでもらえる、安ければ安いほど良い、便利であることが正義のような感覚になるけれど、それって本当に必要なものですか?、と自分の生活を改めて振り返りたい。例えば、100均で買ってもう時間表示が薄くなって見えづらくなってるキッチンタイマーとかね。所詮100円だし、また買えばいいじゃん、と思ってしまうのがなんだかモヤモヤ。なるべく長く使えるモノを身の回りに置いておきたいと思う。

アメリカインディアンの教え

「アメリカインディアンの教え」

加藤諦三

 

 

かつての上司は、第一印象は良かったものの、接していくうちにモラルハラスメントとパワーハラスメントを具現化したような人だということが分かってきた。今までで会った人の中で一番好きになれないタイプ。当時はそんな上司の元で苦しみながら働いて、毎日鬱々としていた。結局、今は当時と比べて嘘のように元気になったので辞めてよかったのだけれど。

その上司のいる環境から離れて約3年。最近友人になった人が「義両親が悲しいことを言ってくる。でも"人を責めるな、仕組みを疑え"と思っていて、義母の育った環境(どんな仕組みの中で生きてきたのか)に思いを馳せている」と言っていた。義母が悪い人なのではなく、育った環境や、周りに言われた言葉が影響してるのではないかと。

それを受けて、これまでモラハラ上司のことをこの世の悪、というほどまでに嫌っていたけれど、実はそうではないのかもしれない、と思えるようになった。その上司が育った町の雰囲気、周りの人たち、背後にいる親の存在が組み合わさって、あの人格が形成されたのだ。きっと。いびつなまま大人になってしまった人なのだ。私がどうこうできないほど、あの町では問題が複雑に絡み合っていたということをだんだんと理解できるようになってきた。

 

年代がどうであれ、彼らは過干渉または批判的な親の犠牲者でもあるのだと思う。ただし、自分がやられたことを自身の子や関わる人に繰り返すかどうか。愛がないと気づいて、同じことはするまいと誓った人はこのゲームからログアウトできる。しかし、気づくことすらできず、抜け出せない人も多々いる。そんな人達は延々と出口のないダンジョンをさまようことになるのだ。周りを巻き込みながら。

 

追記:

文章がすごく論文的なのは、著者が東大卒の早稲田大学教授(当時)であったからだと思う。そして、アメリカインディアンの文化などについての話はなく、想像していたような本ではなかったものの、たくさん考えながら読めた。

山の子みや子

「山の子みや子」

石井和代

 

 

岩手県に住んで約1年。方言も郷土芸能もわかるようになってきたからこそ、この本がとても面白く感じた。移住してきた人みんな読んだほうがいい。

みや子の健気さに何度も泣いた。私も長女だからこそ共感するところもあって、一番上だから我慢しなくちゃいけないことがあったり、年下のきょうだい達の面倒を見なくちゃいけなかったり、それでもきょうだい達の優しさに救われたり。

西和賀町にあるネビラキカフェのオーナー夫妻の話を聞いたことがある。旦那さんの実家はみや子の家のように、両親が切り拓いた土地に住み、電気は自家発電、水は山水を引いて使っていたとのこと。私の中でリンクした。この話は決して何十年も前の話なんかではないのだ。地域は違えども、ついこの間までの岩手の現実。もしかしたらまだ自家発電も山水も続けているのかもしれない。

寒く厳しい東北でみんなたくましく生きていたのだ。

いちからはじめる

「いちからはじめる」

松浦弥太郎

 

 

自分が今どこのフェーズにいるかによって、この本の捉える部分が違うだろうなと思った。パウロ・コエーリョの「アルケミスト」みたいに。

私は最近、一緒に働く人たちに対して大きな愛情を持って接することができるようになってきたと感じる。年齢を重ねたからかもしれないが、多少ミスがあっても「大丈夫」と言えるし、いやなことを言う人に対しても「この人はちゃんと舐めてもらえなかった熊(フランスのことわざで無作法な人のこと)なんだな」と一歩引いて見れるようになった。

人生の旅をゆく

「人生の旅をゆく」

よしもとばなな

 

 

よしもとばななの本は「王国」しか読んだことがない。私にはあまり合わないタイプの物語を書く人なのかも、とその時は思っていて、その感覚がアップデートされてないままエッセイを読んだ。そしたらびっくりした。すごくよかった。こんなに公共の場所(電車や飛行機の中)でぽろぽろ涙を流すことになるとは思いもしなかった。

真実を見つめて、しっかりと自分の中で思考を巡らせる人なんだと感じた。外国にいても国内にいても、どこにいても暮らしは繋がっていて、自分は自分である、という気持ちの芯みたいなものを持っている。それなのに決して押し付けがましくない。読んでいると幼少期住んでいた家の前の道を思い出したり、今の家の向かいで飼われている犬を想ったり、親友を思う気持ちを言語化してくれてると感じたり、共感、と言っていいのだろうか、気持ちが重なる部分がたくさんあった。

 

大好きな町に用がある

大好きな町に用がある

角田光代

 

 

実家に帰ったタイミングで自分の部屋の片付けをしていたら、本棚の奥から小学生の頃の文集が出てた。「どこでもドアがあったら何をしたい?」という質問に「せかいいっしゅうをする」と8歳の私は答えていた。そうか。どこでもドアはまだ実現していないけど、世界一周はあなたがあと20年歳を取れば叶うよ、と伝えてあげたくなった。昔からここではないどこかへ行くことに憧れていたのだ。

 

相性がいい町、という話で角田さんは香港を挙げているが、私にとっては台湾だなと感じる。台北も適度に過ごしやすいし台南も捨てがたい。そもそもご飯が口に合うし、人の雰囲気も良い。これまでは"台湾大好き"と会う人全てに伝えるくらいの勢いがあったが、最近は気持ちが落ち着いてきて、次はいつ帰ろうかなぁとまるで実家のような感覚になってきた。もう居心地の良さを全身で感じるほどまでに。

 

ただ、今回は今まで私が読んできた角田さんの旅エッセイと比べて少し影があるというか、大人になってしまった人の視線というか、違う人が書いたような印象を持った。なぜだろう。連載していた雑誌の読者層だったり編集さんの意向もあるんだとは思うけれど。私も50代に近づけば近づくほど今回のエッセイで書かれていることがだんだん沁みるように分かってくるのだろうか。

ドイツ流 美しいキッチンの常識

「ドイツ流 美しいキッチンの常識」

沖幸子

 

 

今の家に引越してきて1年。これまでの何回かの引越しで生き残ってきたお気に入りのお皿、調理道具、便利な家電たちに囲まれたキッチンなのだけど、私自身、掃除は苦手である。引越してすぐはキッチンもきれいなのだけど、排水溝のぬめり防止に設置した銅製の網もだんだん黒くなってきたし、シンクの汚れも気付かないふりをしている。

うーん……、やるか。

重い腰を上げて、本書をヒントに軽く掃除をやってみた。

 

銅製の排水網→ケチャップにしばらく浸してから洗う

シンク→紅茶の出がらしの茶葉と塩で磨く

アンティーク市で買ったスプーンの黒ずみ→歯磨き粉で磨く

床に置いていた食料品の入った袋→床掃除がしやすいように小さな台の上へ

 

スッキリした。専用の洗剤などはいらない。日常使っているものでなんとかなるのだ。

にょっ記

「にょっ記」

穂村弘

 

 

日常からこぼれ落ちてしまいそうな小さな物事を拾い集めたり、想像力が豊かすぎるゆえにいらん想像をしておそらく現実との区別がつかなくなってしまったことなどを書き記した記録。

失礼を承知で言うが、私は穂村さんのダメダメさが大好きである。ちょっと変態っぽいところもあるが、その辺にいるおじさんがSNSとかで発信すると気持ち悪いしセクハラになることでも、ダメダメフィルターがかかっているので穂村さんが発言するとフフッと笑えてしまう。許される何かが穂村さんの中に存在するのである。不思議。

読んでいてふと、星野源でショートドラマ化したらぴったりなのでは、と思った。NHKかテレビ東京系の深夜15分枠とかいかがでしょうか。よろしくお願いします。