ひとりっP(福井由美子)
「今日も世界のどこかでひとりっぷ」
旅好き女子必見の1冊。
著者はわりとリッチな旅(1泊1万円のホテルとか)が多いけど、荷物やごはんに関しては私みたいな貧乏旅をする人にも参考になる。
荷物減らすために私も旅先で下着洗おう!ってなった。
あとは、今度の旅ではマイクロファイバーのタオルを持って行こうかな、と計画中。
特にドバイに行きたい欲が高まる本だった。
いつか行ってやるぞ~、ドバイにあるという"世界一美しいスターバックス"!!
「がらくた」
江國さんの本を読んでいると、たまに「付き合ってる人がいてても結婚してても、好きな人ができればセックスしていい」っていう感覚になる時がある。この本もそう。私は誰のものでもない、という精神的・肉体的に自立した姿でもあり、性に奔放な軽い人という感じにも思える。現実的に見ればだめなんだろうけど。
だからこそ江國さんの書くそれは一種のファンタジーなのかな、とも思う。
感受性が豊かでよくものを考え、好きな人に好きだと全身で伝える。甘くて美しくて健やか。そんな魅力的な人、周りには中々いない。小説に出てくる柊子もミミちゃんも柊子の夫もミミの父親も、みんな甘くて美しくて健やかなのだ。
印象に残った一節。
「私が事情から学んだことだ。すべての男の人はちがうかたちをしており、ちがう匂いがする。ちがう声を持ち、ちがう感じ方をする、それらを比較することはできない。できるのは、一つずつ味わうことだけだ。」
いつも思うけど、江國さんのひらがなの使い方が好き。
「ペルセポリス I イランの少女マルジ」「ペルセポリス Ⅱ マルジ、故郷に帰る」
戦争って経験しないと他人事なんだな、と今の平和な日本にいて思う。いくら戦争に関する本を読んでも、原爆ドームを見ても、その時はぐっと悲しさとかやるせなさが溢れてくるけど、それから離れると忘れてしまう。
本書は半自伝的な話で、作者であり主人公であるマルジは戦争のあるイランで生きている。友達や親戚が死ぬ、軍隊や革命防衛隊に捕まる、なんてことが当たり前の世界。
そんな中でもバレないように音楽を聞いたり、パーティーをしたり、こっそり楽しみを見出していたというところに、戦時中の日本をテーマにしたドラマや映画を思い出した。弾圧された環境の中であらがいながらも生きている姿に、人種や国に違いはないんだろうな。
"イラン"と聞くと戦争やテロといったイメージばかりが目立つけど、世界遺産もたくさんある。本書では説明されてないが、題名にもなっているペルセポリスも世界遺産に登録されている。また、ナスィーロル・モルク・モスク、別名ローズモスクとも呼ばれている素敵なモスクもある。そこのステンドグラスを一度でいいから見てみたい。
イランは行ってみたい国のひとつなのだ。
旅したいっていう興味から、中東を少しずつ勉強していってるけど、戦争やイスラム教についてまだまだ知らないことがたくさんあるといつも思う。だから、またしばらくしてからこの本を読むと、次は違ったことを考えるかもしれないな、と感じた。
「とるにたらないものもの」
子どもの姿をした江國さんが、こっそりと宝箱を開けて見せてくれるようなエッセイ。
日常のなんでもないことをよく観察・分析しているな、といつも思う。本人はそんな自覚はないのかもしれないけれど。
私も幼い頃に何を考えてたか思い出してみる。
トイレから出る時、いつも怖かった。
個室という空間で、自分ひとりしかいないし、外の世界と繋がっているのは目の前のドアしかない。そんな状況で、「この扉を開けたら知らない世界に通じているかもしれない」「もう家族の元に帰れなかったらどうしよう」という不安にたびたび襲われていた。
そして扉を開けて、いつも通りの家の廊下が見えるとホッとする。「ああよかった、今日も大丈夫だった」と思うのだ。
ドラえもんの見過ぎだったのかもしれないけれど、この頃は、幽霊や異世界がもっと近しいものだったのだろうな。
大人になるということは、冷静になってしまったり、図太くなるということ。それはそれで、少しさみしい。
江國さんのように、いつまでも子どもみたいなホクホクした感性を持ち続けたい。
「旅のうねうね」
旅マンガエッセイって面白い。
私がもう少し画力をつけたら旅マンガエッセイをかけるかもしれない。なんだか俄然やる気が出てきた。
そして、作者のようにちょっと中国語ができれば、旅はもっと楽しくなるのかなぁと思った。
私の友達が「言語は前進か後退しかない。現状維持はない」と言っていた。確かに、大学で単位を取っただけのドイツ語もフランス語も今では記憶の彼方だ。かろうじてハングルは韓国ドラマをたまに見るので覚えている。
中国語まで手を出したらだめだろうか。いや、いいよね。忘れない程度の頻度で台湾に行けってことだよね。そう言って旅に出る口実を作ってるような気もする。
本の所々に作者が敬愛する旅名人の、旅のことばが挟み込んである。その中でも高見順の「旅」から引用した文がなかなかよかった。
"ではしばらく失礼をいたします
さようなら忙しいみなさん"
うんうん。
私ももうすぐ「さようなら忙しいみなさん」って言って旅に出てやるんだ。
「旅をする木」
この本を読むタイミングは、本当に"今"だったんだと思う。
都会に疲れて、ストレスでおなかが痛くて、尊敬できる人も近くにいなくて。毎日ただただ目の前にある仕事をこなし、ぬるま湯に浸かってるだけのようなふやけた生活をして、"生きている"ということがぼんやりとしていた。
通勤電車の中で読んでいて、何度も涙が出てきた。うまく言えないけれど、豊かな感受性を持つ作者の描くアラスカに、素直に感動していた。
マイナス40度にもなる極寒の大地。冷たく灰色なイメージなのに、この本からはいつも温かみを感じた。
やっぱり、私の帰る場所は大自然の中なのかもしれない。あたかも人間が自然を制圧したかのように振舞っている都会が苦手だ。
しかし、作者は決して「自然は素晴らしい=人間は嫌い」の図式にはならない。おそらく、人間も自然のちっぽけな一部なのだ。
だから、作者はカリブーの群れだけでなく、エスキモーやインディアンと出会い、異文化(こんな簡単な言葉では一括りにできないけれど)を直接肌で感じた。
私も作者のように、魂の震えを感じたい。
そして、じっくり自分と向き合う時間をつくりたい。そのためにも環境を変えなければ。
最後に本文から引用。
"二十代のはじめ、親友の山での遭難を通して、人間の一生がいかに短いものなのか、そしてある日突然断ち切られるものなのかをぼくは感じとった。私たちは、カレンダーや時計の針で刻まれた時間に生きているのではなく、もっと漠然として、脆い、それぞれの生命の時間を生きていることを教えてくれた。自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。"
この本は、新しい生活をしたい私の背中を押してくれた一冊になった。
「男友だちを作ろう」
作者には勝手に親近感を覚えている。はっきりした理由はよくわからないけど、言ってることにしっくりくるからかもしれない。そして、文章から想像する彼女の雰囲気が私の友達に似ているとも思っている。
私も男の子と友達になりたい。
でも私のパーソナルスペースが狭すぎるので、すぐ肩を触ったり顔が近かったりするらしい(私自身はあんまりそういう意識はない)。勘違いさせてしまった男子たちよ、すまん。
私としては男性に恋愛対象として見てほしくない。恋愛対象というか、いつか付き合うだろうな、とか、キスできるかどうか、みたいな見方をしてほしくない。
作者もこう言っている。
・「自分が女性でなかったら、もっと友だちになれたのかな」と夢想したこともあった。男の人と仲良くなりたいと思ったときに、恋愛相手になるしかないなんて、嫌だ。
・せっかくこの大きな世界の、長い時間の中で、人と出会えるのに、恋愛のことしか考えないなんて、つまらなさ過ぎる。
世間としては少数派なのはわかってる。
それでも私の考えに同感してくれる男性諸君、私と友達になってください。そして釣りに連れてっていろんな話をしてください。
「エヌ氏の遊園地」
あとがきを読んで驚愕した。
昭和41年(1966年)に出版された本らしい。
星新一の本だからそんなに新しくはないと思ってたけど、半世紀以上も前に世に出た本だとは思っていなかった。
本当に今読んでも面白い。それってすごいことだ。
あとがきで少しネタばらしをしていたけど、「電話のダイヤルを回す」という表現は古い表現になる可能性があるので意識的に避けていたそうだ。
ダイヤル式の電話がメジャーじゃなくなる予想をしてたなんて、さすがSF作家と言うべきか。
だって、小林明子の「恋に落ちて -Fall in love-(1985年)」もダイヤル回して手をとめるし、徳永英明の「レイニーブルー(1986年)」もかけなれたダイヤル回しかけてふと指を止めている。
将来を見据える目を持って小説を書くと、こんなにも色褪せないのか。
星新一が過去の人なのか未来の人なのかわからなくなってきた。
すごく面白い体験だった。
「金米糖の降るところ」
人は自由でいい、いや、女は自由でいい、自由でいることは何も悪いことではない、と励まされているような気分になる。
本書に登場するのは、江國さんらしい、のびのびとした女性たち。
現在勤めている会社に社内恋愛をしている若いカップルがいる(本人たちは否定しているが)。
そのカップルを見て、以前、私も社内恋愛をしていた頃があったなぁと思いだした。辛い恋愛だったはずなんだけれど、今となっては甘い記憶しか残っていない。
"自分のもの"じゃないから、恋愛は燃えるんだろうな。
私はこんなに焦がれているのに、相手の方が一枚上手で、飄々とかわされたり。まるで本書に出でくるアジェレンのよう。あの頃は私も未熟だった。もうこの人しかいないんだって夢中になっていた。恋愛と尊敬の違いもわからぬまま。
それが自分の首を締めていて、辛かったんだと思う。
でも今は、もっと恋愛は自由でいいのかもしれない、と思うようになった。
いろんな人を見て、知る。それってとても大事なこと。
好きな人には会いに行けばいいし、好きと伝えればいい。相手のことを考えすぎると辛いから、もっとシンプルに行動する。
なんだかまた恋愛したくなってきた。
惚れっぽいうえに浮気っぽい性格ですが。
自由に生きてもいいですか?
「短歌という爆弾」
正直なところ、とりあえず穂村さんだから買った、というのが本書の購入の理由。短歌はどちらかというと好きだが歌人になりたいと思うほどではない。
なので、読んでいくと教科書なんじゃないかと思うくらい眠気を誘ってくる。わからん。むずかしい。でもたまにおもしろい。
読んでていくつか気に入った短歌があったので、その中のひとつを紹介。
白鯨が2マイル泳いでゆくあいだふかく抱きあうことのできたら
大滝和子
話は変わるが、本書は大阪の「葉ね文庫」で購入したので、店のブックカバーがついている。シンプルだけどけっこうかわいい。ずっとカバンに入れっぱなしなのでヨレヨレになってしまったが、このブックカバーのおかげで読み終えることができたと思う。よかった。本棚の肥やしにならなくて。
「なつのひかり」
これは江國流のファンタジーなのだろうな。
不思議の国のアリスのように、変わった人(たまにヤドカリ)と出会い、次から次へと異なる空間へ場面が展開する。
いまいちつかみどころのない小説だと思ったが、もしかすると、これは実験的小説なのかもしれない。
文中に何度も出てくるフレーズ「◯◯の話をしよう。」も、場面転換する方法としては新鮮。しかも今作のような細切れの話には、この手法がマッチしているようにも思う。
また、ほぼ意味のない物語をこの世へ投入することで、
"小説というのは必ず意味を持たなればならないのか?"
という問いを投げかけているようにも思う。「読んで勇気が出た」「気に入ったから他の作品も読んでみたい」などという、読者の優等生的発言をこの作品は全く求めていない気がする。ある意味孤高で、易々と媚びない。そして圧倒的な独創性。
私の考えすぎだろうか。
ここまで書いて、巻末の解説を読んでみた。
担当した作家さんも解説を書くのに苦戦しているようだったが、私の感想よりずっと大人な対応だった。うまくまとめている。
江國さん、意味のない物語って言ってごめんなさい。今回は少ないけど、たまに現れるこころ躍るような表現は好きです。
例えば、麦茶を「澄んだ枯れ葉色のつめたいお茶」と表現するところとか。